天皇の葬儀と仏教

〇仏教葬と火葬の起源

既に7世紀前半の聖徳太子の葬儀において仏僧が関わった記録がありますが、部分的な関わりでしかありませんでした。

火葬は仏教の葬法と言われ、記録によれば700年に僧道昭のときが最初とされています。しかし、考古学上は5世紀後半頃の遺跡から焼骨が発見されていることから、6世紀半ばの仏教伝来以前から日本でも火葬が行なわれていたことがわかります。

〇持統天皇の葬儀

持統天皇は奈良に都が移る7年前の703年12月22日に亡くなり、火葬されていますが、この葬儀には仏教が深く関係しています。  天皇の遺詔(遺言)により葬儀は倹約のこととし、素服と挙哀は禁止されました。「素服」とは質素な白服を意味し、喪服としてこれを着用して喪に服することです。日本古来の喪服は白であったことを示しています。「挙哀」とは「ああ、悲しいかな」と言って礼拝することです。いずれも仏教以前の葬儀の基本をなすものです。これらは葬儀を大げさにする象徴として禁止されたのでしょう。

29日、西殿に殯(もがり)。1月5日、大安寺以下4ヵ寺に設斎。2月17日、この日は七七日で、四大寺他四天王寺など33ヵ寺に設斎。4月2日、御在所に百日の斎を設ける。今とは数え方が違いますが(死亡をいつの時点で認定するかの違いによるものと思われます)、初七日、中陰、百ヵ日の法要が既に行われたことがわかります。12月17日、誄(しのびごと)、謚(おくりな)、飛鳥岡(あすかのおか)にて火葬。そして死後1年経って、12月26日、大内陵に葬られました。

〇清和天皇の葬儀

清和天皇は平安時代の前期、880年12月4日に亡くなりました。清和天皇は既に出家の身で、「正向西方。結跏跌座。手作結定印而崩」(西方に向かい、仏教式の座り方をして、両手を組み合わせた姿で亡くなった)と「類聚国史」にあり、念珠を手にかけたまま納棺され、即日火葬されました。

素服、挙哀は禁止されました。死後4日目の12月7日には遺骨が葬られ、7日目の12月10日に初七日。翌日より円覚寺にて僧侶延べ50人によって昼は法華経、夜は光明真言が誦経され、これが四十九日まで続けられました。1月22日に円覚寺にて七七日の設斎を行っています。

法華経は死者の魂を鎮めると同時に滅罪をなし、また、光明真言も滅罪により極楽世界への往生に力があると信じられていました。ここまでくると仏教が全面的に葬儀に関わり、中でも七七日が重要視されていたことがわかります。

以後、天皇、貴族階級においては仏教葬、火葬が定着していくことになりました。


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